朝になり、眩しい朝日が部屋に入射してくる。旅人はベッドから出て頭に巻いた包帯を解き髪を二つに束ねた。洗面台で顔を洗い、頬をパチパチと軽く叩いて顔をシャキッとさせる。  荷物をまとめて部屋から出て鍵を掛け、宿内で朝食を取ってからチェックアウトを済ませた。  今日の目的地は昨日見た大きな建物である科学博物館。宿を出るついでに建物へ最短で行けるルートを支配人に教えてもらい早速発つ。  街の人々も朝になって動き出し、散歩やランニングする人と会ったり、集合住宅のベランダで洗濯物を干す女性と目が合い手を振られたりした。地面に水を撒く老人に会釈され、旅人は同じように返して対向したが、老人が水を撒いた跡は綺麗になっていて思わず足の運び場をずらす。さすがに綺麗にしたばかりの地を踏みしめることはできなかった。  博物館の前まで来ると、そこは名所と謳われることもあり落書き一つない塀で囲われ、正面は立派な門が構えていた。門の上には【鏡館】と博物館の名称が書かれたプレートが門の上に付けられている。展示内容は大凡見当がつく。 「この国はどこ行っても鏡尽くしだな」 「それだけ鏡が大事なんですよ」  呆れの混じる率直な感想をこぼすと、後ろから声がした。旅人が振り返ると、先日馬車で会った緑の子がいた。 「お前、昨日の」 「あっ。ご、ごめんなさい……」  緑の子もハッと気づいたようで慌てるようにフードを両手で掴んで下げた。 「別に謝るもんじゃないだろ。……が、謝るくらいならフードを取れ。失礼だな」 「こ、これは、駄目、なので……。さ、さよなら!」 「あ、ちょっ」  緑の子は逃げるように鏡館に入っていった。 「……なんだアイツ」  いちいち気にするものでもなく、緑の子の後に続くわけではないが旅人も鏡館へ入った。  中は壁も床も天井も鏡になっており、複数人も映る自分に目が回りそうになる。入って早々困惑の表情をする旅人に、受付の女性は口元を手で覆いながら笑っていた。  旅人は受付に向かいパンフレットを受け取る。 「迷子にならないようにお母さんの手を握っているのよ」  と声をかけたところで旅人に母親がいないことに気づく。 「あら? 親御さんは……」  余計なことを聞かれたくないのか旅人はパンフレットに従ってさっさと進んでしまった。  案内順に従って歩く通路は鏡ではなく普通の壁になっており、歩きやすくするためか照明は床に付けられた小さなライトだけだった。進む先から光が入ってきており、床のライトを頼りにまっすぐ歩く。  最初に来た部屋は鏡の歴史について。鏡の誕生や普及に至るまで、ガラスのケージの中に昔の鏡が置いてあったり、小難しい話が小さい文字でプレートに書かれてあったが、旅人は退屈そうに読むのを省いた。 「小さい子には、ちと難しいかな」  旅人を見ていた老人が顎に生やした白髭を撫りながら声をかけた。 「小さい言うな」 「ほっほ、これは失礼。ではお主よ、何しにここへ来たのかね」 「んー、これといった理由は無いよ。面白いコト探してるだけ。でもここはつまんないね」 「素直な者よのう。たしかにここは物好きが目に留めるだけじゃから仕方あるまい」 「はは、物好き……ね」  意外にも自分以上に毒を吐く老人に旅人は呆気を取られてしまった。 「どれ、わしが話をしてやろう。なぜこの国に鏡が多いか……知りたくはないかね」 「多い気はするけど別に聞きたくは──」 「それは鏡が出来た頃の話じゃ」 「おい聞けよ!」 「鏡は自分そのものの姿を表す、つまり真実を見せてくれると広まったんじゃ」 「おーい。じいさーん」 「良い行いをすれば鏡に映る。悪い行いをしようものなら鏡が映す。人々は真実を貫くために鏡を愛用し、鏡のように自分が映るもの全ても磨きあげ、国中嘘がつけないようにした」 「あーはいはい。なるほどねぇ。とぉっても勉強になったよー。じゃあオレはこれで」 「しかしわしは思うんじゃ」 「んんんん!」 「人は鏡を愛しているが、はたしてそれが本当の姿なのか? 良く見せるために演じているだけではないか、とな。その行為自体がまるで嘘のようではなかろうか。──お主、わかるかね」 「知るかよ! 話聞けよ! オレにとってはどうっでもいい!!」  とうとう旅人は声を荒立てこの部屋から去り、次の部屋へと向かった。  その部屋は鏡の製造法についてだったが、ここも旅人は素通りした。  通路を抜け、次に出た部屋は、片側の壁に三枚の鏡が張られた部屋。部屋自体は薄暗く、鏡を照らす灯だけが唯一の照明だった。  天井の隅に付けられたスピーカーからアナウンスが流れてくる。 『ここはあなたの笑った顔、泣いた顔、怒った顔を見ることができる部屋です。鏡に映ったあなたが本来あるべきそれぞれの表情』 「なんだそれ。うさんくさ」  そうぼやきながら通るが、一枚目の鏡には旅人の笑った顔が映っていた。 「……は?」  旅人自身は今笑っていない。だが鏡に映る旅人は明るく楽しげに笑っている。 「笑ってんじゃねえ!」  自分がしている表情とは違う顔を見せる鏡に、旅人は苛立ちを覚えた。これが本当の姿というものなのか、真実とやらを映し出しているのか、旅人には理解ができなかったが不快であることには違いなかった。  歩いて次の鏡には、泣いた自分の顔。その先は怒った自分の顔。 「……なんだここ……」  そういう娯楽の場だというのにその趣旨を受け入れられず、不気味なものと捉えて旅人はフードを被りこの部屋を出た。次の部屋も次の部屋も自分とは違うものを映す鏡。  次第に足取りが早くなっていく中で、ある部屋に入ると旅人は一旦足を止めた。 『ここはあなたの過去を映し出す部屋。最も強く残っている思い出のあなたの姿がこの鏡に映し出されます』  一枚だけ張られた大きめの鏡。そこに映った人物を見て、旅人はフードを取った。手をゆっくり伸ばして鏡に触れる。  触れ合った手。どこか懐かしさを感じる。こんなにも近くにいるのに、鏡に映ったその子供は、ここにいる旅人にとって遠く離れた存在に見えた。  旅人にとって自分の過去とは何たるか。  そして旅人は確信する。目を細めながら笑い、鏡に映った子も同じ表情をした。 「違う……。お前はオレじゃないよ……」  そう言うと、鏡に映っていた子にヒビが入り、粉々に割れて消えてしまった。  鏡には何も映らない。過去を映す鏡なのに、旅人に過去は残っていなかった。  旅人は鏡に触れていた手を自分の胸に置いてもう片方の手で握りしめる。小さく小刻みに震える手。静かに目を閉じ、深く息を吸い込んで自分を落ち着かせた。  一人の空間を独り占めした後、フードを被り直しながら次の部屋へ進む。パンフレットを見るとあと二箇所のようだ。  通路を進んで部屋に来ると、そこには先客──緑の子が佇んでいた。 『ここはあなたの大切な人を見ることができる部屋。本当に心から大切だと思っている人がこの鏡に映し出されます』  アナウンスの声が静かな部屋に響く。  この部屋だけ他の部屋と違い、片側の壁全体が鏡になっていた。旅人は一目だけ鏡を見やると、想像がついていたかのように興味の無い反応を見せ、驚きもせず表情も変えず、視線を緑の子に戻した。  旅人は緑の子まで近づき、対面している鏡を見た。旅人が見ても緑の子しか映っていない。見る本人にしか〝大切な人〟が見えないのだろう。  ふぅ、と小さく吐息を漏らす。そして旅人は切り替えるようにニッと笑って声をかけた。 「よう。また会ったな」  緑の子は声に気づいて顔を上げる。その反動でフードが取れた。鏡を照らす灯が緑の子の顔も照らし出す。  白と黒のピンを前髪に留めた若草色の髪の少年。大きな黒色の瞳から涙が溢れ頬を濡らしていた。 「お前、泣い、」 「大切な人……リュウくんのせいで……傷ついた…」 「〝大切な人〟? 〝リュウくん〟?」 「でも、ここにいる……前みたいに元気な姿で……。よかった……よかった……」  途切れ途切れの言葉を紡ぐと、またすぐに顔を鏡へと戻して白い手袋をはめた両手を鏡に添えた。少年は鏡に映った人物に会えたことがよほど嬉しいのか泣きながらも笑う。  それは傍から見たら異様な光景で、鏡という呪いか何かで取り憑かれているようだった。少年は幸せそうだが、はたしてそれでいいのだろうか。  旅人は自分を映す鏡を見る。 「…………」  鏡に映る先ほど一目だけ見た人物。その人物は変わらない。旅人にしか見えないだろうその人物に、思わずため息を吐いた。 「……。事情はよく知らないけど、これはただの鏡。お前の言う大切な人は存在しないよ」  少年を放っておくこともできるのに、旅人は冷酷に現実を告げる。 「ここにいます……いますよ……」 「違う」 「いるじゃないですか……!」 「いない」 「なんでそんなこと言うんですか!」  バシンッ、と空気を切り裂く破裂音。旅人は真剣な眼差しで少年の頬を叩いた。 「オレを見ろ。しっかりとその目で見ろ!」  見ず知らずの子に怒鳴られ叩かれ、少年の顔からさっきまでの笑顔は消え失せた。 「よく聞け。鏡が映すのは現実じゃない。真実も嘘も幻想も映すかもしれない。どれを見ようと信じようと見る側の勝手だが、鏡が映すものに惑わされんな。本当の姿を見破れ。『それ』は現実じゃない」 「……っ……」 「大切な人なんていない。鏡が映すのは錯覚。実際に会わせてくれることなんてできない。会わせてなんてくれないんだよ!」 「…………」 「それをだぁ? 見てりゃあ馬鹿みたいに鏡相手話したり泣いたり……ふざけんなよ! 鏡は今の自分を映すだけで十分だ。鏡に願望やら希望やら抱えて現実逃避してんじゃねえぞガキが!」  もはやただの八つ当たりに過ぎない言葉を投げつけるように吐いた。  少年の目からゆっくりと涙が一粒溢れる。さっきの涙と違うそれは、頬を伝い顎から垂れ落ちると、拍車がかかったように少年の顔をくしゃくしゃにして目から大量の水を流した。 「…………」  旅人は情もなく蔑んだ目で見、そのまま少年を置き去りにして部屋を出た。少年の誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、足を止めることはなかった。

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