たとえば産まれて間もない雛鳥。  巣から落ちて母を呼ぶ。  その子を救おうと手を出そうとしても、その前に親鳥が雛を救う。  たとえば傷を負った獣。  尽きる命の最後まで生きる。  その生は美しく儚く、それが自然の摂理となる。  手を出さずとも回る世界。  必要なのは森の主ではない。  森と共に生きる者。 「穢れし我を見放し給う」  白蛇は長い月日をかけて森を巡回し、森の子らに思いを告げた。  そして辿り着いた東の祠。懐かしい住処。  そこには小さな人間の娘がいた。 「おねえちゃんも白蛇様に会いに来たの?」  純粋な声に白蛇は微笑み首を横に振った。 「主の敬う白蛇様などもうおらぬよ」 「白蛇様もういないの?」 「うむ」 「やっぱり死んじゃったのかな……最近会わないもんね」  白蛇は膝を曲げ娘の頭をやさしく撫でた。 「死んではおらんよ。少しの間この地を離れるだけじゃ」 「なんで知ってるの?」 「──さあ、なぜじゃろうの」  娘の問いに白蛇ははぐらかすように笑った。 「主は自分の住処へ帰るといい」  白蛇は娘を人間の領域へと帰すと、祠を前に屋根に手を乗せる。 「思いは受けよう。しかし我にも森の主にもこれは要らぬ。……人は自分の力で生きていける」  白蛇は枝を掻き集め火を焚いた。  その火を祠の屋根に移し、自分が過ごした住処を自ら壊した。  木製の祠は火の勢いが止まることなくよく燃える。火の粉は黄金に舞って光り、白蛇の目に美しく映った。  白蛇の住処は人の手に造られたここではない。人に祀られる存在は必要ない。  火を焚くのに時間がかかったせいか慌ただしい足音が響き数名の人間が訪れた。  少し歳を取ったが自分の姿を変えた研究者。  さっきの娘が、知らない女がいる、とでも話したのだろう。 「白蛇様だ……!」 「私たちに力を」 「あなたが我々には必要」  人の言葉を理解できるようになった白蛇は、人の発する言葉の数々に悲しく笑った。子が言っていたように、たしかに人は自分のことしか考えていないようだ。  愚かだな。自分と同じ。  ふぅ、と小さく吐息をこぼすと白蛇は目を鋭くして人間に告げた。 「礼を告げよう。我が愚行を見改めさせてくれた者たちよ。だが我に力などありはせぬ。すがるのをやめ自らの罪に己も気づくがいい」  人には白蛇の言いたいことがわからなかった。  それでもいい。人が成長を選ばないならそれも選択。 「傲慢に生きし我が魂は穢れきった。いくらでも罰を乞おう。しかし今もなお我を信ずる者たちがいるのなら、今は、今だけは、森の主として願おう──」  白蛇は下にあった鋭利な石を手に持ち、自分の腰まである長さの後ろ髪を切り落とし放った。 「我が愛した森、この森に棲まう子ら、これと引き換えに幸を与え給う」  森の主として最初で最後の願い。  力を持っていなくても、傲慢な願いだ、とさらなる罰が下ろうとも、これが白蛇の選んだ森の主の姿。  人間は理解できずに白蛇へ手を伸ばすが、突如白蛇の背後からビュオォという猛々しい突風が吹き荒れた。  風に送られる葉や砂埃に人間は目を開けられず腕で顔を覆い、白蛇は風の吹く後ろへ顔を向ける。  祠の炎は風によって消えたようだ。  風はもっと奥。はるか東。  白蛇はいまだ目を開けられない人間に顔を向け直し、 「さらば、罪分かつ者」  それだけ告げて風吹く元へと走り出した。  思い出せない何かがある。この身になってくすぐりだした。それが自惚れた原因。  辿り着いたのはすっかり忘れていた白蛇の生まれた地。  その地に響く風と木々の音。  過去を乗せて今を往く。  生まれたての白蛇に響いたその音は 『───────』  過去の誰かの願い。 「……託されていたのか」  ようやく頭の片隅に引っかかっていたものを思い出し、白蛇の目からは自然と涙が頬を伝った。  白蛇は自分の出生を理解し、それもしっかりと胸に刻んで歩き出す。  「──この罪と共に生きよう」  森には一つの命が残された。その命は新たな命を生み出した。  新たな命は過去を忘れ、己の魂を穢した。  穢れも罪も、すべてがその命の証明。  存在の名を以て、過去と今を刻む。  いつか我が魂を誇れるように。 「すまぬかった……我が母よ。今はしばしの別れをここに」  森にはまた、一つの命が残された。

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