成り行きからハクノアの護衛を任されたノンは、また先ほどのような襲撃が起きないよう電車を使わず徒歩でハクノアを仕事場まで送ることになった。のだが、
「…………。ハクノアさん、ひとついいですか」
「ノアでいいですよ。なんでしょう?」
「近いです」
キツネの恐怖を間近で味わったハクノアは、それほど恐れているのかノンの腕に絡んでべったりとくっついていた。キョロキョロと辺りを見渡し、隙を見せまいと周りを警戒している。
「いつ現れるかわからないんですもの……」
「……それはそうですけど……こんなに近いと何かあったとき対応できません。いざとなれば自分はあなたを突き放してシキを庇いますよ」
「うっ……」
冗談に聞こえない淡々とした台詞に真顔な表情。ハクノアは絡めていた腕を緩め、キュッとノンの上着の裾をつまんだ。
「……これなら……いいですか?」
「……まあ、はい」
ノンの後ろでむすぅっと頬を膨らませ明らかにご機嫌ナナメな様子のシキは、ハクノアがノンの腕から離れた瞬間にガシッとノンに抱きついた。いわゆる嫉妬だろう。
「……シキ」
「やだ」
「…………」
「…………」
「……わかった」
無言のやりとりでもノンはシキの訴えを理解し、この状態を許されたシキはえへへ、とご満悦な表情を見せる。
「仲がいいんですね」
「そう、ですね……。仲がいいと言うのかどうかはまかせます」
「え?」
「自分はシキを守るためにいるだけですから。もしもキツネが現れて、仮に……そうですね、仮にも万が一シキに手を出そうものなら──」
ノンは立ち止まってハクノアへ冷ややかな目を向ける。
「自分はそいつを許さない」
吸い込まれてしまいそうな深い闇をした瞳。本能的に身の毛がよだち、血の気がサァッと引いた。
「……なぜあなたが脅えるんですか」
「い、いえ……心強いと思っただけですわ……」
「…………。そうですか。──それより、キツネは他の地区でも同じようなことをしていたんですか? 自分はまだ青地区のことしか知らないですし、もし目の前にキツネが現れるようならもう少し詳しく情報を知っておきたいです。『恨むなら白を恨め』という言葉も気になるのですが……」
「……そうですね。護ってもらう身ですし、事の発端から話しましょう」
ハクノアの口から語られたのは、一ヶ月前に遡ったできごとだった。
昔から緑化に力を注ぎ誇りを持っていた国。しかし時代の変化とともに観光客は減る一方で、利益も減少し、他国は日々進化を遂げていく。
そこで遅れをとるわけにはいかないと焦りだした中心地区である白地区を筆頭に、この国全体で工業革新していくことを公表した。
キツネが現れたのはその改革計画が始まってからだった。
最初被害に遭ったのは緑地区。
緑地区では交通網をより多く確保するべく線路の工事が入った。しかし事件の日の早朝、工事現場は復興することが難しいほどに荒らされ、工事に使っていた機材も壊されてしまっていた。
そして緑地区長の元に一枚の脅迫状が届いた。
『工事を中止させないと被害は拡大するだろう』
やむを得ず工事は中止となり、緑地区は全面的に緑化を保護すると表明した。元々緑地区はこの国で一番緑化に対して愛護心が高く、工事に関しては他の地区から強制という名の圧をかけられ渋々承諾したものだった。
被害者が出なかったのが不幸中の幸いだが、今までの緑化への育みが高じたおかげとも言われている。
二回目の事件はその一週間後のこと。黄地区が被害に遭った。
黄地区も緑地区同様、交通網を広げるための工事について話が進んでいた。被害が及んだのはその工事について議決されたすぐ晩のこと。
地区所では警備員が見張っていたにも関わらず、犯人は一人でやってきた。証言によるとその者はキツネの面をつけていた。このことから『キツネ』と呼ばれるようになった犯人は、ナイフ一本で警備員たちを負傷させて地区所に侵入し、会議室で会議に使われた工事関係の資料を無惨に切り裂いた。そして会議室の机に『次はここまで生ぬるくはない』とナイフで彫った荒々しい字を残して姿を消した。
黄地区長は自分の身を案じて工事を取り止めると議決し直した。
三回目の被害は赤地区。これもまた二回目の被害から一週間後のこと。
赤地区では新たな工場を建設予定だったが、その工事をする前に、深夜地区長がキツネの襲撃に遭った。地区長は用心のためにとライフル銃を用意していたが、キツネを目の当たりにしたことにより錯乱してしまい、追い返すことはできずに両目をナイフで切られ目を開けられない状態になってしまった。
工事は延期となった。
そして四回目の被害が、昨晩起きた青地区。
地区所には警備員だけでなく警察も張っていたのだが、赤地区長襲撃から二週間経っていたために警備体制が薄くなってしまっており、キツネの侵入を簡単に許してしまった。
キツネは警備員や警察を身一つナイフ一本で襲撃していき、被害に遭った者たちは命に別状はないものの重症を負った。
地区長は首元を切られ、かろうじて生きているのだが、現在入院中で意識不明の危険な状態。
ハクノアから今まで起きたキツネの犯行を聞くと、被害が拡大し悪化していることがわかる。あまりに物騒な話に、ノンにしがみつくシキの腕の力は自然と強まっていた。
「……残りは白地区……」
「白地区は国の主導権を握ってると言われるくらい他地区よりも発達していて……これはあくまで噂なんですけど、改革推進派を増やすため他地区へ賄賂を贈った、なんて話も……。すべてはこの国を作り変えるために」
ノンはふと新聞売りの少年の言葉を思い出す。話を聞いていると、たしかにキツネの犯行には意図的なものを感じた。見せつけるように他地区から攻めていき、わざと白地区を最後に残したような悪意。
被害が悪化するなかで青地区長は意識不明の重体。それならば次起こりえる被害は、
「……死人が出るかもしれませんね……」
立ち止まり、風に乗せて呟いたハクノアの声。ノンも同じことを考えていた。
電車に残したカードからも、怪しく脅す一文を残している。キツネが狙うのが白地区長の命か、それともハクノアのものか。はたまた両方か。それはまだわからない。
ふいにハクノアのノンの裾を掴む力が強くなり、ノンも立ち止まってハクノアを見下ろすと、彼女は身を縮ませ声を震わせ小さく呟いた。
「……たすけて……」
「…………」
消え入りそうなか細く儚げな声にすぐ答えることはできなかったが、ノンは一呼吸置いたあとに返事をする。
「──わかりました」
最初助けを求めたられた時の反応と違い、惑うことのないノンの声。ハクノアは顔を上げて、うっすらと笑みを浮かべた。
「私の職場はここです」
目的地に無事到着し、ハクノアはノンの前に出て、すぐ目の前の店に手のひらを向けて紹介する。その店を見たノンは一瞬だけ目を丸くし、シキは大きく目を輝かせた。
「……こ、こは……」
「お花屋さんだぁ」
改革派であるはずのハクノアが勤めている店は花屋だった。
開放的に開かれた幅の広い入り口。その脇にずらりと並んだ大小様々な花。壁には大きなガラスが張られてあり、店内の様子を一望できる。
「ノアさん!」
唐突に店内から女性の声が上がる。声の主と思しき女性が飛び出してきたかと思うと、その女性はハクノアを視野に入れるなりがばっと強く抱きしめた。
「よかったご無事で……!」
「うっ……く、苦しいですよ……」
「ああ、申し訳ありませんわ」
女性は苦しげなハクノアの声を聞いて慌てるように手を離し、ハクノアは胸に手を当ててふぅと息をついた。
「新聞を見て私……ノアさんのことが心配で心配で……」
「おおげさですよ。まあたしかに危ない目には遭いましたけど……」
「やはりノアさんに出張に行ってもらうべきではありませんでしたわ……私が行っていれば……ノアさんがキツネなんかに巻き込まれずにすんだのに……」
「そうしたらリンさんが被害に遭っていたかもしれないじゃないですか」
「私のことなんて別に……」
「ダメですー! リンさんは私の憧れなんですから」
リンと呼ばれた女性は涙を浮かべながらまたハクノアを抱きしめ、ハクノアは呆れの混じった笑みを見せながらリンを宥めた。
「ノンさんシキさん、こちらはこのお店のオーナーのリンさんです。リンさん、この方たちは旅人のノンさんとシキさんです」
落ち着いたリンに二人を軽く紹介し、店内の奥の部屋でお茶を用意し詳しい事情を話すことになった。
店内に招かれる中ノンが見たのは、白く長い髪を揺らすリンの胸元にもまた改革派のバッジがつけられていることだった。
「キツネが昼間にも現れるなんて…しかもよりによってノアさんを……」
「リンさん大丈夫ですよ! ノンさんが私を護ってくれますから」
「…………。──あっ、はい」
「……ノンちゃん、今忘れてた……?」
「いや。ちょっとぼうっとしてた」
「しっかりしてください!」
いまいち締まりのないノンの様子にハクノアは思わず声を上げるが、
「すみません」
返答の声もやはりいまいち締まりがなかった。
「はぁ……」
「ノアさん……警察に保護してもらった方がよろしいかと……」
胸の前で手を合わせながら、心配と不安を隠せないリンはそう提案する。
「べ、別にノンさんのことが頼りなさそうとか…そう言いたいわけではないんですのよ? でもほら……ノンさんはまだお若いですし……旅で危険に慣れているからとはいえキツネ相手では……」
「…………」
「ノンちゃんは──」
「リンさんの言い分はもっともです」
黙って聞いていられなかったシキを、遮って制したのはノンだった。
「自分はまだ子供ですし、旅に出たのもまだ一年に満たないほど短く経験も未熟です。リンさんの言うとおり警察にお世話になる方がいいかもしれません」
「ノンさん……っ!」
「話のわかる方で安心しましたわ。ノアさん、保護を受けましょう。連絡しておくので心配しなくていいんですのよ」
「何言ってるんですか! 青地区での取引はうまくいかず役に立てなかったのに……誰がこの店を守るんです! 役に立たない警察なんかの厄介になってる間にこのお店が取り壊されたら……そんなことになったら……」
「……ノアさん……」
しばらくの沈黙。ノンとシキにはどうにも気まずい雰囲気だった。とくに、若さゆえ、体を動かすことが仕事とも言える年頃のシキにとって、この重い空気は耐えがたいだろう。目だけキョロキョロ動かし唇をグッと噛みしめ、動きたくても動けない、というようにもぞもぞと堪えきれていない体が揺れている。
「ノンさんシキさん。申し訳ございませんが、少しの間席を外していただいても……」
「わかりました」
リンの申し出にノンはすかさず承諾した。シキは救われた。
部屋を出て店内をぐるりと見渡す二人。色とりどりに飾られた花はきれいだ。しかしノンはふと気がつく。
客がいない。
改革派が多いと聞いていたのでわざわざ花を買う人などいないのだろうか、となんとなく外に出て辺りを見ると、来る時は気にしていなかったため気づかなかったが、この近辺の店はほとんどシャッターが下りていた。開いている店もあるのだが、店内は薄暗く品数も少ない。人通りが少なければ活気も感じられない。
『このお店が取り壊されたら……』
「……工事が、始まる……? この一帯で?」
ハクノアが言っていたことを思い出し、推測をノンは呟いた。